宗教という逃げ場所

テレビでオウム真理教の番組を放映していました。
チラッと見ましたが、一連の騒ぎになった当時の事件は、ある種「バブル脳」でしょう。
今の時代の感覚からしたら、信者とか、何その時代遅れの感覚?という印象です。

宗教に溺れる奴は、たいていが保身屋に過ぎません。
荒唐無稽な教義をであっても、それを信じて守ることで、飯が食え、生活ができるなら、『現実』よりもマシなのでしょう。
そして、その荒唐無稽な教義を否定するということは、信じている自分を否定することになりますので、人一倍、保身が大切な連中にとっては、否定という選択肢はありません。

ただ、それで「騙されていて哀れ」なのか「死ぬまでそこで食っていけて幸せ」なのか、どちらと解釈して良いのか分かりません。
仮に、就職しても3日ともたないようなダメ人間の逃げ場として、こんなに『幸せ』ば場所はないでしょう。
そんなもん、好きにすれば良いと思います。
それが、信仰の自由です。

ただし、その信仰が他人の信仰を脅かすなら、話は別です。

一番単純なのは、強引に勧誘するような手合いでしょう。
「幸せになれるから」などと、しつこく勧誘するような連中は、他の人の「信じない自由」を奪います。
したがって、妙に褒めたり、しつこく勧誘する宗教は、信仰の自由から外しても構いません。

また、当然ながらオウム真理教のように、毒ガス撒いて人殺しをすることを「問題ない」と考えるような手合いは、宗教ではありません。
何が教義か知りませんが、自分たちのために人を殺すのを厭わないような自分勝手な集団であり、もう、信仰の自由など微塵も認めるわけにはいかないでしょう。
いや、彼らが「信仰の自由」を盾にするなら、「我々に仇なす連中は、例外なく殺す」という『信仰』を主張する人が出ても不思議じゃありません。
中東あたりで、殺し合いしている連中など、そんな感じです。

最近、入れ墨を入れたタレントに、多くの非難が集まったことに対して、ちょっとした騒ぎとなり、一部では、それを擁護する人々もありました。
曰く「入れ墨を入れる自由があるのに」という理由だそうですが、どうして、この手の人々は「入れる自由」が正しくて、「入れ墨を嫌だと思う自由」を認めないんでしょうか?
昨今の「LGBTブーム」など、まさに、その戦略で、少数派の意見は正しいから、多数派は黙っていろ、と言わんばかりの声ばかりに感じますが、それこそ、言論弾圧じゃないでしょうか。
自分が好きでそうしているなら、そうしていれば良いのに、そういうのが好きじゃない人にまで「受け入れて!」から始まって「受け入れないと差別だ」とか言い出す人々と、本当に仲良く出来るとは思えません。
まぁ、LGBTについては、当事者ではなく、それを煽り立てている連中の商売なので、真面目に聞くだけ時間の無駄ですが、今時、お互い、過干渉すぎやしませんかね、というのが正直なところです。


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